梨花にとって、車は男だった。


この男こそが、自分の生涯において最高の男だと、確信していた。

文句の1つも言わず、梨花の指し示した場所から、寸分も動くことなく、ただそこにいる。

どれだけ待たせてもいい。

勝手気ままに電子ボタン1つで呼び出せば、目を光らせ、声を2度上げて喜ぶ。

かわいいもんだ。

彼を起こすのも、動かすのも、すべて思いのまま。自分次第。どうとでも、言うことを聞かせられる。


201876日、いつもどおり、同じ挙動で彼にまたがる梨花は、ムシャクシャしていた。

精一杯働き、酒とタバコ、脂の乗った肉をたらふく食べて、上機嫌になっているサラリーマンがいる。

「仕事はたいへんだが、俺は家族のために頑張るんだぜ」

そういい振り回して、自分のケツに鞭を打って、「幸せだ。ああ俺は幸せだ」なんて考えていそうな、そのアホ面を見て、梨花は心を冷やした。

残念でならなかった。


梨花は思う。

(私の彼は、あの馬鹿みたいな馬面の酔っ払いを、いとも簡単に始末してくれる。ひとこと言えばいい。「やつを私の視界から、消し去って」と。)

18分後、2人は、生まれ育った町を一望できる、小高い山の展望台にいた。

そこで会う約束をしているのだ。

偽りの彼と。

すなわち、梨花にとってはなんの価値もない、くだらない、役に立たない、意味のない恋人のことである。


いるだけでいいのに。

いるだけでは済まない男。

31分、遅刻してきた俊が、悪びれもせずに「よう」と手をあげる。

(ああ。クソだな)

何十と繰り返し、覚えてしまった、このあとはじまる口論の始終。

(未来とは、変化の余地があるからこそ、希望を感じるのであって、この男がこのままの人間を、50年後も続けていることは明白なのだから...

そこから先は、考えたくなかった。


梨花は、ほんとうの彼に目を配り。

......ね?)

そう心でつぶやいて、

すこし寂しそうに笑ってみせた。