読書

あなたは、子どもが休み時間にひとりで本を読んでばかりいたら、かわいそうだとおもいますか?

 

このあいだ、Twitterでこんな記事を目にしました。

休み時間楽しんでいますか

記事の全文はこちらです。

30年ほど前、小学6年生の担任をしていたときのことだ。

休み時間にずっと本を読んでいた子がいた。年度途中に転校してきた女子児童だった。

「みんなと一緒に過ごしたらどう?」と何回も声をかけたが、「本が好きだから」と首を振った。いじめはなかったと思うが、彼女が卒業するまで、仲間と心から笑い合う場面はほとんどなかった。

仲間と自由に楽しく過ごすことは人間にとって最も大切である。私たちの子ども時代、休み時間や放課後が楽しくて仕方なかった。今の子どもたちは、学校の休み時間や放課後に仲間と自由にのびのびと過ごせているだろうか。

学校の休み時間は、人との関わり方を学ぶ、とても重要な時間である。

授業と同様、あるいはそれ以上に大事な時間と言っていいかもしれない。

「休み時間には、友達と思いっきり楽しもう」
そう言っている自分の姿を初夢に見た気がする。

(神戸新聞 2017,1,22)

 

自分の幸せがどんなものか、他人に決めてほしくない

このコラムの見出しは、「休み時間楽しんでますか」とあります。

そして、ここに登場する女の子は、あたかも「休み時間を楽しんでいない」かのように、語られています。

ぼくも幼いころ、彼女と同じように、休み時間はずっと本にかじりついていました。

あのころのぼくは、休み時間はいつも、早く本の続きが読みたくってワクワクしていたものです。

20分休みといえば、ほとんどのクラスメイトが、長く外で遊べるからと、喜んでいましたが、ぼくにとっては、最も長く本を読み進められる時間であり、最も幸せな世界に浸っていられる、大好きな時間でもありました。

人間にとって、何がいちばん幸せか、なんてことは、人の数だけ違っているものです。

このコラムの、元教師の筆者にとっては、たまたま仲間と遊ぶことが幸福であっただけで、この女の子にとっての幸福は、こころゆくまま、静かに、本の世界を旅することなのかもしれません。

大好きなもの

何より、彼女は、「友達がいないから」だとか、「クラスの子が苦手だから」とか、そういう理由ではなく、「本が好きだから」と、答えたのです。

ぼくは、その言葉にこそ、教師が耳を傾けるべき、彼女の本心が込められていると思えてなりません。

彼女は、すすんで、自分の意思で、休み時間の過ごし方に、読書を選択しているんです。

クラスメイトから逃げて、しかたなく本を読んでいるのではないんです。

 

「みんなと一緒に過ごしたらどう?」

 

この言葉からは、「友達がいなくて、一人で過ごすしかない子を、なんとか、みんなと過ごさせて、友達と遊ぶ楽しさを、学んでもらおう」といった、まさに、典型的な、「価値観の強要」の姿勢を感じます。

ほんとうに、なんて暴力的な言葉なんだろうって、思います。

大人って、「自分がそうであったように、すべての子どもにも、同じようにあってほしい」とか、「自分と同じような子は幸せで、そうでない子はかわいそう、なんとかしてあげなくちゃ」とかいうふうに、考えてしまう人が多いんです。

みんな同じ人間に育てるのが、教育の目的なのでしょうか。

ぼくは、好きなように育ってくれて、好きなことをできるように、力を伸ばしてあげる。
ただし、人として守るべきことは教える。
そのくらいの姿勢がいいと思っています。

その、「守るべきこと」の中には、「休み時間は友達と遊ばなくてはならない」なんてルールは、決して含まれません。

ほんとうに、なにを誇らしげにこんな暴力的なことを語っているのだろうか。と思います。

 

彼女らしく、好きに生きてほしい。必要なことは、あとから自然と身につくのだから

「人間にとって、最も大切なこと」を、なぜこの筆者が悟っているのか、理解ができません。

確かに、社会生活を営むために、人間関係を構築する能力は、あれば助かることが多々あります。

ですが、それが人にとって、最も大切なことだとは思いません。

今の時代は、人とのつながりが希薄だ、と言われるのもわかりますが、

「本に没頭し続けたからこそ、自分の頭の中の、形のないものを、綺麗に、丁寧に、伝わりやすく、言葉にする術を身につけ、その結果、誰よりも円滑なコミュニケーションを、とれるようになった」という話は、当たり前のようにあるんです。

本が大好きなぼくの友人は、そういう人ばかりです。

 

そもそも、人間は発達の速度が個々に違っていて、才能が開花するタイミングも人それぞれです。

仲間と楽しく過ごす時期やタイミングも、みんなと同じである必要はないんです。

友達なんて、一生かけて、親友が一人できたらいい、くらいに思っていても問題ありません。

友達が多ければ多いほど、素晴らしい人間だって思う人は、Facebookで手当たり次第に、フレンド申請すればいいんです。

そうやって「へへ。俺友達200人もいるんだぜ。人望あるだろ~」とか言っていればいいと思います。

 

「さあ! (友達と)自由に遊ぼう!」という、条件付きの自由は"不自由"なんじゃないか

「休み時間は人との関わり方を学ぶ重要な時間」、とするなら、教師は無理に彼女を図書館の外へ連れ出すべきではないでしょう。

同じように、本の好きな子を、紹介してあげて、大好きな本を通して、共通の価値観を持った、素晴らしい友人を作る、手伝いをしてあげるべきではありませんか。

なぜ、彼女にとっての「自由」である大好きな読書の時間を奪われてまで、彼女がクラスメイトと「自由に」遊ぶ必要があるのでしょう。

「休み時間は、仲間と過ごす、大切な時間だから、みんなと外で遊んできたら?」
この言葉が、どれほど、彼女の自由な精神を、自由から遠ざけるものなのか、筆者には理解が及んでいないのでしょう。

人間関係は、多ければいいというものでも、多くの人の価値観に合わせて付き合えばいい、というわけでもありません。

深く学び合い、質の高いコミュニケーションをとれる友人が、1人でもいれば、彼女と、そのたった1人の笑い声が、たとえ、教師の耳に届かなくても、「心から笑い」合う様子を、見ることが出来なくても、本の世界を語り合う、彼女たちのまなざしは、何より輝いて、美しいだろう、とぼくは思うんです。

心の中で

 

笑うことだけが、幸福ではありません。

心の中でしか、感じ得ない幸福もあります。

ぼくは、小学生のころ、心から笑った記憶はありません。

だけど、読書に費やした時間と、本にもらったたくさんの冒険やドラマは、大切な記憶として残っています。
それが、何よりも綺麗で輝かしい、幼いころの宝物です。

そんな心の宝石を、この元教師のような人に、「卒業するまで、仲間と心から笑い合うことはなかった」なんて言われて、あたかもそれが、「悲しいこと」、「さみしいこと」であるかのように、語られるだなんて。

 

かなしい気持ちになります。

自分の大切なものを否定されたみたいで。

 

この元教師の筆者さんは、中学の校長を歴任していたらしいのですが、「まさしく」って感じがします。

 

子どもにだって、こうありたい、というイメージがあるのに、どうしてそれを無視するの

もちろん、教師としての信念をもって、こういう人物に育ってほしい、と念じることは、悪いことだとは言いません。

ですが、「子どもがなりたい人間像、子どもがありたい自分、幸せな自分のありかた」と、「教師が、こうなってほしいという人間像」を、執拗に一致させる必要は、ないと言いたいのです。

ただ、他人の人権、財産、健康と安全を侵したり、人間としての尊厳を失うことをしようとすれば、正してあげればいいのです。

そうでもなければ、本人のありたい姿に、少しでも、耳を傾けてあげてもいいのではないか、と思います。

 

コラムの筆者の価値観は、30人のうちの29人の児童にとっては、素晴らしいものかも知れません。

しかし、外で遊ぶことよりも本が好きな、この女の子にとってはどうでしょうか。

全ての児童に、同じ価値観を植えつける必要が、果たしてあるのかどうか。ぼくの答えは決まっています。

mig

 

きゃろ🐷うつの太陽☀️漫画家

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